虐殺を目撃した「朝鮮村」の人たち

       
 
 「朝鮮村」は、朝鮮人が住む村ではない。  日本人が朝鮮人を虐殺した村である。  南丁における朝鮮人虐殺の事実を、虐殺をおこなった日本人は、日本にもどったあと、いままで隠しつづけている。  朝鮮人虐殺がおこなわれた事実を知る黎族の人びとが、そこを「朝鮮村」と名づけた。 




2000年春、朝鮮人が焼かれた現場で。
村人たちが林のなかの草地をわずかに掘ると、
小さく崩れた遺骨がたくさん現われた

周亜細さん(1922年生)
 「朝鮮人に、水をあげたり、いもをあげたりしたことがある。
 日本人は、朝鮮人に、豚も食べない葉を食べさせた。腐ったにおいがして、いまは肥料にする。
この葉を食べないといって殴った。飛行機草や苦命樹。わたしたちは堆肥にして使う。
 朝鮮人を鉄条網で縛って、木にぶら下げて殴るのを見た。恐ろしかった。
 日本人は、村に来て、野菜や鶏を盗んでいった」。
 
周亜細さんと符亜参さん夫妻
飛行機草をもつ符亜参さん(1918年生)
飛行機草
朝鮮人がつくらされた道路跡で、チゲを背負うかっこうをする周学勤さん(1935年生)
退避壕を案内する周学勤さん
首を切って
頭を剃って道路わきに並べてあった
板の上にのせ 道を通る人に見えるようにしていた
MOVIE 周学勤さん

WMPの入手はこちら
 
 林吉亜さん
「朝鮮人にサツマイモをあげようとして、日本兵に見つかり、顔を殴られた。   朝鮮人が、鉄線で首を縛られ吊るされて殴られ、首を切られたのを見た。首がなくなっても身体がまだ動いていた。日本軍の宿舎近くの酸梅樹のところで。隠れて遠くから見た。
  日本兵は、飛行機草を食べない朝鮮人に、熱い湯をかけたりした」。




林吉亜さん(1924年生)
符亜輪さん(1916年生)

符亜輪さん
 「1945年ころ、日本軍に道路をつくらされた。
  朝鮮人も働かされていた。朝鮮人は、竹のかごを背負って土を運んだ。   朝鮮人は、少ししか食べるものをもらえないので、力がなかった。運ぶことができなければ、日本人に殴られた。
  日本兵は、朝鮮人をふたりずつ、木に吊るして殴った。   日本人はいすに座って、朝鮮人に朝鮮人を殴らせて、見物をしていた。死ぬまで殴った。
  死んだ後、2、3人ずつ穴に埋めた。朝鮮人に穴を掘らせて、埋めさせた。箱に死んだ朝鮮人を入れて、穴に運んだ。  最初は、殺した朝鮮人に油をかけて焼いたが、あとは油がなくなって、そのまま埋めた。焼いた場所は、ここからすぐのところだ。  日本人が銃をつきつけて、運んだ朝鮮人に火をつけさせた。
  朝鮮人はとても多かった。みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった。
  朝鮮人の住んでいるところは、まわりが鉄条網で囲まれていて、日本兵が見張っていた」。  
 
蘇亜呑さん(1914年生)
「牛追いをしているとき、木にぶらさげられた朝鮮人が殴り殺されるのを見た。
  日本兵は、朝鮮人の手首をしばって木にぶら下げて、棒で殴った。死ぬまで殴った。
  朝鮮人は殴られながら、身もだえして叫んでいた。殴られながら泣いていた。
  何回も見た。見ていて、わたしも涙が出た。日本人は見させないようにしたが、隠れて見に行った。
  殴った人は、白い服、黒い服を着た人。白い服、黒い服を着た人が、青い服を着た人を殴った」。
中村に残っている日本軍用洞窟跡
芸亜文さん
芸亜文さん
  「日本軍がここに来たとき、朝鮮人に、道路、井戸、洞窟、コンクリートの建物などを作らせた。
  自分は幼かったが、大人に、かれらが朝鮮人だと聞いた。日本兵が何かを裏山のほうに運ばせているのを見たが、  何かはわからなかった。」。
中村の略図
 
前ページ   TOPに戻る 次ページ