「朝鮮村」は、朝鮮人が住む村ではない。
日本人が朝鮮人を虐殺した村である。
南丁における朝鮮人虐殺の事実を、虐殺をおこなった日本人は、日本にもどったあと、いままで隠しつづけている。
朝鮮人虐殺がおこなわれた事実を知る黎族の人びとが、そこを「朝鮮村」と名づけた。
2000年春、朝鮮人が焼かれた現場で。 |
「朝鮮人に、水をあげたり、いもをあげたりしたことがある。 日本人は、朝鮮人に、豚も食べない葉を食べさせた。腐ったにおいがして、いまは肥料にする。 この葉を食べないといって殴った。飛行機草や苦命樹。わたしたちは堆肥にして使う。 朝鮮人を鉄条網で縛って、木にぶら下げて殴るのを見た。恐ろしかった。 日本人は、村に来て、野菜や鶏を盗んでいった」。 |
飛行機草朝鮮人がつくらされた道路跡で、チゲを背負うかっこうをする周学勤さん(1935年生)退避壕を案内する周学勤さん |
首を切って頭を剃って道路わきに並べてあった板の上にのせ 道を通る人に見えるようにしていた |
林吉亜さん |
符亜輪さん(1916年生) 「1945年ころ、日本軍に道路をつくらされた。 朝鮮人も働かされていた。朝鮮人は、竹のかごを背負って土を運んだ。 朝鮮人は、少ししか食べるものをもらえないので、力がなかった。運ぶことができなければ、日本人に殴られた。 日本兵は、朝鮮人をふたりずつ、木に吊るして殴った。 日本人はいすに座って、朝鮮人に朝鮮人を殴らせて、見物をしていた。死ぬまで殴った。 死んだ後、2、3人ずつ穴に埋めた。朝鮮人に穴を掘らせて、埋めさせた。箱に死んだ朝鮮人を入れて、穴に運んだ。 最初は、殺した朝鮮人に油をかけて焼いたが、あとは油がなくなって、そのまま埋めた。焼いた場所は、ここからすぐのところだ。 日本人が銃をつきつけて、運んだ朝鮮人に火をつけさせた。 朝鮮人はとても多かった。みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった。 朝鮮人の住んでいるところは、まわりが鉄条網で囲まれていて、日本兵が見張っていた」。 |
蘇亜呑さん(1914年生) 「牛追いをしているとき、木にぶらさげられた朝鮮人が殴り殺されるのを見た。
|
芸亜文さん芸亜文さん
|
|